ホークスちょっと昔話「剛腕が歩んだ濃密な野球人生」~寺原隼人の巻
3月23日、とても楽しみなホークスOB戦がみずほPayPayドームで開催されます。
懐かしの面々が、ユニフォームに袖を通して再びグラウンドで躍動します。
彼らは現役時代にどんな輝きを見せていたのか。ホークス取材歴24年(2002年シーズンより)、ホークスの歴史をずっと現場で数々を取材してきました。そして、たくさんの原稿を書いてきました。
あの選手が当時どんな活躍をして、どんな思いで戦っていたのか。
その頃に私が執筆した拙稿ではありますが、ホークスにあった数々のドラマを、当時の熱量のまま思い出していただければ幸いです。
その名も、「ホークスちょっと昔話」。はじまり、はじまり~。

2016年に撮影
2017年に「週刊ベースボール」へ寄稿したものを加筆・修正(※2017年のつもりで読んでください)
昨今の野球界において、150キロを投げる投手は珍しくなくなった。アマチュアですら全国各地から“剛腕発見”のニュースが飛び込んでくる。
時代は変わった。先日、ソフトバンクの和田毅がこんな話をした。
「僕らが高校生の頃は140ちょっと投げればプロ級と言われて話題にしてもらえた。それが甲子園で、(松坂)大輔と(新垣)渚がいきなり151キロですよ。とにかくもう、別格でしたね」
それが98年夏のこと。150キロをたたき出す高校生など10年に一人、いやそれ以上の逸材だと大騒ぎになった。
だが、それからわずか3年後の2001年、甲子園に再び怪物投手が現れた。
それが寺原隼人だった。
21世紀最初の夏。宮崎・日南学園のエースが、甲子園の主役となった。01年8月16日、2回戦の玉野光南(岡山)戦。すでに1回戦の四日市工戦で151キロをマークして、松坂と新垣の当時の甲子園記録に並んでいた。プロ野球のみならず大リーグのスカウト、そして日本中の野球ファンからの熱い視線を一斉に集めた中、当時17歳の寺原は、この試合では中継ぎとしてマウンドに上がった。
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